「出血がここで止まっているのは奇跡です。不思議で仕方ないですね」
医師にそういわれて、ほっとしました。
これは、私ではなく母のレントゲン結果です。
私は当時20代前半、母が突然倒れて緊急病院へ運ばれた時の事です。
休みの日に自宅で休んでいると、母の職場から連絡が入り倒れたことを知りました。
母はまだ40代、ですが30代の時にも脳卒中で倒れておりピッタリ10年後、再度脳卒中で倒れたのです。
そしてこの当時が、私にとって一番辛い時期でもありました。
母が倒れたあと、家族に連絡を入れて病院で合流し、医師の診断を待つ間は非常に心細かったです。
10年前母が倒れた時、担当医に「再発に気を付けて下さい。再発時の生存率は低くなります」と言われていたからです。
集中治療室で眠る母はまだ生きている、でも数十分後、数時間後は分かりません。
今回はダメかもしれない、と言う雰囲気の中、集合した家族の誰もがその言葉を出せずにいた中、医師に呼ばれて説明された母の病状が冒頭の言葉でした。
そして「半月乗り越えれば大丈夫です。今は絶対安静で入院してください」と付け加えられたのです。
これは私の辛い体験の一つでありますが、ここで終わりではありません。
遠距離通勤で帰宅が9時過ぎるのが当然な父と、出張が多い姉、そしてまだ未成年だった弟と、結局自然と私が母の代わりに家事をこなすことになったのです。
そして当時、我が家は父方の祖父と同居していました。
祖父と母の嫁舅関係は、良好ではないけれど不仲ではないというようなものです。
祖父は母が倒れた報せを受け、今度はダメかもしれないな、と肩を落としていました。
しかし峠を越えたものの、入院が長引き家に戻ってこられない母にもどかしくなったようです。
酒乱の気があった祖父は、私が仕事の後に病院に寄って帰宅すると顔を真っ赤にしながら「あの女はまだ帰ってこないのか!」と激怒します。
今となれば、母がいなくなって寂しかったのだと思いますが、時には手が付けられない勢いで暴れる祖父を相手しなければならなかったのは本当に辛かったです。
また、首の皮一枚で大きな後遺症もなく意識が戻った母ですが、実際に後遺症が全くなかった訳ではありませんでした。
半身不随は免れましたが、言語障害と半身の麻痺があったのです。
うまく話せない、うまく笑えないのが恥ずかしいと、勝気で江戸っ子のような母が一転して暗くなってしまったのは、子としてやるせない気持ちしかありませんでした。
それでも一生懸命リハビリをこなす母の姿に、自分の体ではないからこそのもどかしさを覚えました。
母はこのようにして祖父の相手をしながら、子供を見守り育ててくれたのだと思うと、家事と仕事、介護の両立がなんだ!と奮起する事が出来ました。
言葉を話すことを嫌がる母に対して、どんな言葉も聞き逃さないように待ち、表情の変化について褒めていき、やがて母らしい笑顔を見せてくれるようになった時、本当に嬉しかったです。
祖父も母が帰宅したことで安心したようで、時に暴れることもありましたが落ち着いてくれたのです。
今は母も元気になって毎日笑ってくれています。
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